私がこの度選んだ作家「渡部さとる・山下恒夫・染谷學・中島恵美子・田中亜紀」は1960年代生まれの作家。
作家活動としては1980年代に入る。
私はこの年代の作家を注視している。注視している理由には次の事が挙げられる。と、言うのも1960年以降の写真の流れの事は、必ずと言って良いほど次の事から始まる。
とても残念だ。
それは。  
1968年に細江英公・川田喜久治・丹野章・佐藤明・奈良原一高・東松照明等によってVIVOが立ち上げられる、次の時代を背負った、中平卓馬・森山大道・高梨豊・多木浩二たちが1968年にprovokeを3冊出版する。更にはVIVOのメンバーの一部とprovokeのメンバーの一部がワークショップ写真学校をたちあげる。
そのメンバーの中には荒木経惟も加わっている。
1960年以降の大きな日本の写真のうねりを説明する時、誰しも(評論家等々)何故か、VIVOからprovokeへ、さらにはHIROMIX時代と決まって説明する。
それは一つの流れには間違いないし、説明にも説得力を持つからだと思う。
もっと早く言えば説明が簡単だからだ。
私がここでのべたいのは特にprovokeの時代とHIROMIX時代までの間の作家を忘れていないかと言う事だ。

ではVIVOはprovokeはHIROMIXは、何であったのかと言う事を私流に簡単な説明を加えておく。
VIVOの時代はルポルタージュからの脱却、表現主義への移行。
provokeは戦後の日本社会、特に政治との関わり合い。
VIVOとprovokeは互いに意識、無意識のうちに関わり合いを持ち世界へと羽ばたいて行く。
HIROMIX時代と呼ばれる作風はイメージの消費といっても良いのかも知れない。
過去の伝統や写真文化、技術、方法論まで全く関係の無いところで表現を始める。HIROMIX・蜷川実花・長島有里枝らは2001年に第26回木村伊兵衛賞を受賞する。
多少後れてHIROMIX とは同じ世界にいながら、スタイルを変えて2002年には川内倫子が第27回木村伊兵衛賞を受賞する。
この頃、こぞって日本の写真誌紙、評論家は新しい表現方法として過大評価を与え始める。
川内倫子以降こうした写真家たちは表現のスペースを得て、勢いを持ち私小説的な作風で日本で花咲き開花する。しかしあまりにも過大評価されすぎて、今日ではその出口すら見いだせないでいるのが現状だ。

ここに来て、ヨーロッパでは新しいジャポニズムとして評価され始めたのはとても憂える現象だ。

ここで話題を変えて、説明を加えておく事がある。バブル期の前後の時代、多くの写真家はコマーシャルへと流れる者と作家活動を続ける者とに別れる。写真家の二極化である。
コマーシャルへと流れた者で一部の作家をのぞき、見るべき作品は殆ど残っていない。

本題に入る前に写真誌の流れに、組織(二科会等)やVIVO、provokeの流れに全く関係なく独自の作家活動を続けた作家達が数多くいた事を知っておく必要がある。
木村伊兵衛であったり、鈴木清・桑原史成・中村立行・植田正治・英伸三等々が上げられる。

ようやくここに来て、1970年代の作家、北井一夫・土田ヒロミ・須田一政らが世界的に注目をされ始めた。
北井一夫・土田ヒロミ・須田一政らはどの流れにも組みする事なく、独自の道を歩んだ事は注目すべきである。
これらの時代の作家の幸せな事は、発表の場があったと言うことである。新聞社・雑誌社にグラビア誌があったり、専門の写真雑誌が数多くあった事である。
彼らは競ってこれらの誌紙に発表する。
そのプリントがネガが残っている。それがここに来て評価されはじめた。

1980年代の作家は写真専門の誌紙はほぼ全滅し、発表の場すら無い。
個展をするか、写真集を制作するか、そうでもしなければ作品は残せない。
それに加えて、細江英公・川田喜久治・丹野章・中平卓馬・森山大道・荒木経惟らがまだ現役で活躍をし、その次ぎの時代の北井一夫・土田ヒロミ・須田一政らが勢いを増している。

この様な状況の中、1980年代の作家は発表の場も与えられず、埋もれようとしている。
特に私がこの度選んだ作家「渡邉さとる・山下恒夫・染谷學・中島恵美子・田中亜紀」はどの流れ、組みに属するものではないからだ。
孤独と闘い、自身の歩む道を歴史的に経験的に身につけたものだと思う。作家は一人であり、孤独であり、自身の為の作品であり、個としての自身が表現者である事を。

作風はそれぞれに違うが、共通して言えるのはドキュメンタリー作家である。
もう50歳を超えているのに日本では若手写真家としてしか評価されていない。
日本写真界の不思議な現象である。この時代に光りを与える事が日本写真界全体の底上げとなる事を信じる。

高橋国博 (ギャラリー冬青)

ギャラリー冬青ウェブサイト