菅沼比呂志(ガーディアン・ガーデン・ディレクター)
先日、視覚障害のある方々と若手写真家とのワークショップを開催した。写真に興味を持っている視覚障害者の方々に、写真の面白さを知っていただくと同時に、若手写真家たちには、視覚障害者との交流を通して新しい視点で自らの作品を考えてもらうきっかけになればと行ったもの。写真家たちに、画像を凹凸にした立体プリントを使って、自らの作品を視覚障害者の方々にプレゼンテーションしてもらった。すると、参加した作家たちからは、“見える”という前提がなくなった瞬間、“何からどう説明したらいいのか分からなかった”という反応が多かった。レンズは丸いのにプリントは四角である。物には影がある。遠くの物は小さく近くの物は大きいという遠近法等など、“見える”我々にはカメラや写真の基本的な原理原則が分かっているから、そうした共通感覚をもっているから、我々は写真を共有し、楽しめるということがよく分かった。
さて、今回紹介するのは、80年代前後生まれの若い作家たちである。彼らは、これまでの写真の原理原則、共通感覚にもたれかかった表現ではなく、新しい地平を獲得しようと、新しい表現にチャレンジしている若者たちである。清水裕貴の写真一枚一枚には、テキストが添えられている。その写真とテキストを繋ぎ合わせることで不思議な絵物語が組みあがる。添えられたテキストは、その写真を説明するものではないが、全く関係ないとも言えない。それぞれが単独でも成立しているが、程よい距離感をもってお互いが響き合い、その相乗効果で独特の世界が立ち上がってくる。
吉田和生は、写真を使って新たな世界を作り上げようとしている。一見すると、抽象絵画のようにも見える本作は、森や木々、森のなかから見上げた空や木漏れ日の写真を使って合成された作品。自衛隊の訓練地でもあり、自殺の名所でもある富士山麓の原生林で撮られたものだ。撮影地の情報は見えてこないが、それらの連なりからは、これは写真なのか、それとも絵画なのか、これまで感じたことのない独特の肌触りのある世界が立ち上がってくる。
宇田川直寛が撮る写真は、そこに写されたものが一体何なのか、ほとんど分からない。それを理解することが大切ではない。イメージの断片を使って、どう写真を楽しむことができるのか、そのルールを探す。まるで写真を楽しむゲームを作っているようである。
齋藤圭芸は、母娘の関係を描いている。日一日と自分の世界を拡げ、時々どちらが大人なのか分からなくなるような発言をするという4歳になる娘。その成長に驚き、少々戸惑っている様子も伺える。また、娘の目を借りて見ることで、目の前の現実の世界がこれまでとは違ったものに見えてくる。二人の関係を写真に置き換えることで、お互いの距離を測り、その関係を確認しているようでもある。
うつゆみこは、彼女の作品の中では、世界を創り出す絶対的な神のような存在である。作品「はこぶねのそと」には、彼女によって産み落とされた、残念ながら方舟に乗れなかった生き物たちが写されてる。旅先や休日に訪れた店で見つけた小物や包装紙、雑誌の切り抜き、スーパーで買ってきた野菜や魚類を使って命を吹き込む。彼らの生きる世界の片鱗が写り込んでいるのが、さらに物語を深めてくれる。
先のワークショップの話に戻る。20代で視力を失った時に、すべての写真を捨てたという60代の女性の話を聞いた。今回が2回めのワークショップだというこの方は、四十数年ぶりにカメラを持ち、自分が撮った写真を立体プリントにして触れ、写真の魅力を再発見した。今度出かける海外旅行にはカメラを持って出かけたいと仰っていた。今回の5人の若手作家たちも写真の魔力に取り憑かれ、まだ誰も見たことのない世界を見ようと旅立っている。もし、この5人の作品の魅力を、次回のワークショップで視覚障害者の方々に伝えることになったら、随分と悩むことになるのだろう。