スクランブル その2

Scramble No.2

* 最近フランソワ・トリュフォーの「ヒッチコック映画術」という本をかじり読みしているのですが、僕もヒッチコックが大好きなのでとてもおもしろいんですね。映画監督が映画監督にインタビューしているところも、あの場面はどうやって撮ったのか、なぜそのように撮るのか、というような話が出てきてすこぶる面白い。
ひるがえって、写真の本の話なんですが、僕は写真について書かれた本はほとんど面白くない本ばかりのような気がしているんです。写真家なのでなるべく写真について書かれた本は読まなきゃ、と思っているんですけどね。

でも写真家自身が書いた写真の本はたいがい面白いんです。畠山直哉の「話す写真」、とかホンマタカシの「たのしい写真」、森山大道の「写真との対話」、篠山紀信の「写真は戦争だ」、細江英公の「ざっくばらんに話そう」などなど。だけど写真家以外の人が書いた本というのはたいがいつまらない。まあ写真について書かれた本自体が少ないので余計にそうなのかな、と思いますけどね。

五味さんは今、ShINC.FashionShiNC Nude とかっていって、過去のファッション写真やヌード写真をインターネット上で楽しそうにコレクションしていますよね。ファインアートフォトといった芸術的な写真にこだわらなければ写真はすごく面白いものなのですよね。エンターテインメントな気分になるところがたくさんある。
写真って本来なんでもあり、のメディアなわけですから誰でもどこからでもはいることができるし、お楽しみの部分はたくさんあるメディアなんですよね。だから写真の話も本来楽しいはずです。
それが、写真評論家のような人が写真について語り出すととたんに、なんだか話しがむずかしくなってきてすっかりやる気も失せてしまうようなしろものになってしまう。

なんでなんでしょうね。

僕はもっとファインアートフォトからファッションやヌード写真、どうでもいいような写真までふくめてマニアックにエンターテインメントにおしゃべりしていく必要性があるように思います。


G:人はなんでもカテゴライズとかジャンル分けするのが好きだけどそもそも写真をジャンル分けするのって難しいのです。
「のです」と言うのは僕はShINC.ArchivesでTumblrから写真集めているのだけれどもジャンルと言うよりディレクトリーとして考えた場合やっかいな問題が出て来るんです。
例えばニュートンがヴォーグで撮ったヌードをどのディレクトリーに入れるのかと言う事

ShINC.Archives/ファッション/ニュートン/ヌードとするか
ShINC.Archives/ヌード/ニュートンにするのか、
ShINC.Archives/ファインアート/ニュートン/ヌードにするのかと言う事なんです。

昔の写真家は楽なんです。エドワード・ウエストンのヌードは
ShINC.Archives/ファインアート/エドワード・ウエストン/ヌードでOKなんです。

ペンとかアヴェドンの場合は
ShINC.Archives/ファインアート/ペンなのか?
ShINC.Archives/ファッション/ペンなのかって事になってしまう。

いつも不思議に思うのだけどみなさんペンの写真を見てこの写真はファッションでこれはファインアートの写真だって分けて見ているのでしょうかね?

ShINC.MAGAZINE/の『写真の価値観の見直し』と言うのは『Scramble Photographs』写真をごっちゃまぜにしてもう一度その価値観を見直そうと言う事なんです。
僕は元々ファッション写真撮っていたんでその写真を見る人に特定の女性を考えて撮っている訳で僕の写真を見た特定の人がこの写真はアートだと言う人がいても良いと思うのです。
見る人が見てよければそれで良いじゃんって感じです。

永田さんの言う通り写真家の人が書いた写真の本は良いと思うのだけれど、自分で現像した事もない評論家の連中にその写真の価値観を決められて、それに『ごもっともです』と言ってる写真難民に「それはちがうんです!」と言ってやりたいんですよ。

*写真難民? アハハ、そんな人いますよね。

いやほんとその通りだと思います。篠山紀信も「写真は戦争だ」のなかで飯沢耕太郎をこきおろしていますね。
写真は肉体作業だし、フィルム時代は肉体労働と神経を使う労働の両方をこなさなければならないようなきつい作業でもあったわけです。製作しているときは苦しいな、つらいな、と思って製作しているプロセスもたくさんありますからね。だからこそ完成した1枚がすごく貴重でうれしい。
写真評論家は最後のおいしいところだけを肴にして商売しているわけで、テレビのグルメ番組でおいしい料理を食べて、う〜ん、うまい、まったりとして・・・なんて言ってる連中とおんなじですね。

今は子供でもデジカメや携帯で簡単にぱっと写真が撮れちゃいます。うちの5歳の娘もカメラ貸してっていってどんどん撮っちゃう。構図とかおかまいなしです。あとで見るとなんじゃ、これ?っていうカットがいっぱいあるけど単純に背が小さい、という視点だけでも面白く思えるカットもありますね。
サザエさんのアニメにはまっているときは、サザエさんの画面ばっかり撮ってるし。

五味さんも子供が撮る写真に注目してますね。

G:子供の写真に注目していると言うか興味があるんです。
というより大人の撮った写真に興味がなくなったと言う方が正しいかも。

理由は永田さんの言う様に「評論家の書いた本は面白くない」と言う事。
「評論家の書いた本は面白くない」のはいいのだけれど、それを「面白い」と思う若い写真家が多い事が問題なんです。
僕なんか生まれつきへそ曲がりで疑り深いから、だからどんな偉い評論家の評論も「嘘だろ?」と疑ってかかる。
でも最近の若い人たちは就職先の希望が一番多いのが「公務員」と言う様に
「上の人の言う事を聞いていればいいんだ」と言う『素直な人』が多い。
早く言えばマニュアルというかお手本がないと何も出来ない。

「評論家の書いた本は嘘ばっかりで面白い」と読んでくれれば良いけど「そうだったのか!」と感心してしまう。

そこが問題なんです。ShINC.MAGAZINE/のコンセプトは正にその点なんです。

「写真史って誰が書いたんだ?」と言う事。
特に日本の写真史は載るべき人が載っていない。
撮る側から見た写真史ではないのです。

だれもが木村伊兵衛さんのパリの写真は良いと言うけど、「そんなに良いですかね?」
写真史上ではその時代にパリでライカを使って撮影した日本人は木村伊兵衛さんと言う事で載せなければならないけど写真としてそんなに「いいものなんですかね?」
僕には誰かが「いいね!」したから「いいね!」押さないといけない、Facebookの「いいね!」連鎖にしか思えないのです。

植田正治さんは良い例で日本では誰も「いいね!」してくれなかったのがある外人が「いいね!」したので評価された。
僕が学生の時、写真史の教科書に植田正治さんは載っていなかった。
今の写真史の教科書に岩瀬禎之も新山清も載っていない。
手をつないで歩いているだけで、お巡りさんに「おい、こら!」と言われる時代にヌード写真しか撮ってないとしか言えない写真家は、パリでライカを使って撮影した日本人を載せるのだったら載せるべきだと思うし、新山清に関してはオットー・シュタイナート自身が認めた『主観主義』の写真家として載せるべきだと思うのです。

最近あえて『最近の若いやつら』と言う言葉を使うのだけど「最近の若いやつらは自分の価値観を自分で決められない」
人の顔色うかがって撮ってる写真ばかりで僕には興味がないのです。
その点子供の写真は自分の興味あるものしか撮らないので面白いのです。
でも、そんな子供も大人になる訳だし、僕としては「写真のピーターパン症候群」ってところですかね?(続く)