ティム・フラック インタビュー

Tim Flach Interview 2014/April

Fraction Magazine Japan( 以下F): KYOTOGRAPHIEでの個展開催おめでとうございます。 今日は日本のファインアートフォトグラファーのために写真家としてのどのように自分の仕事をマネージメントしていったらいいのか、ということをお聞きしたいと思います。
まず、Timさんがどのようにして今のような動物の写真家として成功していったか、簡単に思い出していっていただけますでしょうか。
ロンドンでお生まれになって、Saint Martins College of Art and Designでファインアートの勉強をされたんですよね。

ティム・フラック :  難しい質問ですね。その答えを私が出せればいいんですが、努力してみます。非常に面白いと思ったのはアートフォトについて質問されたわけですけれど、アートフォトとはなんなのかということを考えてしまいます。多くの人達がアートフォトとはなんなのかを定義しようとしてきました。そして成功という言葉がでてきましたが、その成功という言葉も定義するのが難しいわけです。自分のプリントを売ることができて物質的に成功したのか、あるいは人生においてひとつの違いをもたらすことができたのか、あるいは自分がやってきたことに威厳や誇りをもっているのか、それぞれが別の事柄です。
写真だけではなくて絵画やその他のさまざなまアートの分野で、偉大なアーティストなのによい生活ができなかったり、そうでもない人が非常に良い生活ができた、という例があるわけです。ご質問の内容がある程度の所得が得られるのかどうかとか、あるいはある程度自分の願いがかなえられるのかどうかということなのか、ということで考えた場合にもし私からアドバイスを提供するとすればちょっとじっくり考えなければならないと思うのです。
例えばアートの意味性について考えているようなコンセプチュアルアーティスト達は美しい風景画を描いている人達を見下しているかも知れません。また作品が売れてよい生活をしているアーティストを見下しているアーティストがいるかもしれません。自分にとってなにが重要なのかということを考えなければならないですよね。自分の価値観を見失ってしまえば成功はおぼつかないかもしれないですし、単純にいろんな請求書の支払いができれば成功しているといえるかもしれないのです。

写真というメディアがアートの形態としてこれほどの支持を集めたことはかつてなかったことです。偉大な写真家というのは報道写真を通じて生活をしてきた例が多いわけですが、今は、そういった状況に対して非常にストレスがかかっています。多くの出版社は財政的に苦労していますし、また多くの雑誌ではスタッフの解雇が進んでいます。そして多くの写真家あるいはアーティストはデジタルな世界のなかでどういうような形で自分たちのコンテンツの商品化をすすめるかを迷っているかも知れません。あまりにもめまぐるしく世の中が変わっていくからです。一瞬まばたきするとまた変化が起きていますし、ちょっと横をむいている間にも変化が起きていきます。
同時に画像の民主化というものが今ほど発達した時期もかつてはなかったわけで、画像のコンテンツの利用が今ほど普及した時代も他には見あたりません。我々のポケットの中にこれだけのものが収まる状況(iPhoneなどのように)というのもかつてはなかったことです。しかも写真を撮って共有するのも簡単です。
写真家としてのスタート時になぜこのことをやっているのかはっきりしている場合があるわけです。いつもそうじゃないかもしれませんけど現実にいろいろな請求書を払っていかなければならないなかで、もともとなぜこういうことをやっているかという理由を見落としがちです。なにが大切なのかということを探す旅をしなければなりません。
ウィルヘルム・フルッサーという人が “Towards Philosophy of Photography”という本の中で、「現実というのは自分が死へむかっていく旅のなかで重要なものとしてつまづくものである」、という言葉を残しています。彼はひとつのアパラタス=装置としてのカメラを定義した最も優秀な人だと思いますが、価値のある写真を撮るためにはボックス(カメラ)の制約の外まで考えなければならない、と言いました。

F: たぶん今言われたことはとても根源的なことなのですね。ファインアートフォトグラファーになるということが単純に自分のプリントが売れるという事になると思っている写真家もいるわけですから、そのへんにちょっとギャップもあるかも知れないですよね。

ティム・フラック :  写真というのは常にひとつのメディアであることを思い浮かべなければならないと思います。そのメディアの応用の仕方というのは多種多様であり、そしてなぜその媒体にいたったかという理由も多種多様なものです。
写真というアートのパラメーターを考える時にアメリカでのニュートポグラフィックスのことを考えます。1975年にジョージ・イーストマンハウスでの展覧会のテーマが“New Topographics”でした。 機能があるものはアートではあり得ないという立場からスティーブン・ショアーのような写真家がとりあげられました。私は写真というメディアは曖昧さという事を考えた場合にはいろいろな層に分けて考えることができると思います。そして違った形での経験というものに触れることができると思います。
ニュートポグラフィックスはとても影響力があって、コマーシャルアーティストというものを定義づける上で影響がありました。なにか機能があるようなものに対するひとつの偏見というものがそこに現れていたように思います。
ただ慎重に考えなければなりませんが、アートというのは自分の経験を整理するものであるということを考えると、ひとつの疑問としてメディアというのはなんのために使うのかということを考えなければなりません。 あるいは写真というアートは他の人達のために経験というものをどうやって作りだすかという探索だととらえたとします。そうするとなぜ人々はイメージというものをひとつの意味にトランスフォームさせているかと言うことを理解しなければなりません。
みんながそれぞれにユニークな旅をしているのです。

私はせいぜいフォトグラファーですから、偉大な思想家について特に悪意をもつということはないですし、そんなことは避けたいと思いますが。

F: 大変面白いお話しをしていただいていますが、時間が少しなくなってきてしまいましたので、もう一つの質問をしたいと思います。
ティムさんは、動物の撮影において、スタジオのセットアップやデイライトシンクロを使って撮影されていらっしゃいます。ファッション撮影のような手法ですね。そのような手法を使うことによって人間が動物にもっているステレオタイプな考え方を大きく変えることに成功したと思います。

ティム・フラック : そんな評価を受けていいものかどうかちょっと疑問ですが、動物というテーマとの関わり合いというものをとりあげたということであればそれはうれしいことです。

F:  非常にユニークで哲学的な作品だと思います。

ティム・フラック:  ファッションの点についてちょっと言わせていただきたいのですが、ファッションフォトグラファーが最初にモバイル・フラッシュを外で使うようになったのです。ポピュラーなメディアではそうです。ポピュラーカルチャーのなかでは汽車を撮影している写真家などももちろん使っていたと思います。

F: ティムさんは動物の写真をたくさん撮影されているわけですが、グリム童話のなかで人間が動物とよく話している場面がありますね。カラスの話していることを聞いたり、熊と話したりしています。ティムさんも撮影される過程のなかできっと動物たちと会話をされたと思うのです。そうした会話のなかでどんな発見をされたのでしょう。

ティム・フラック : 興味深い質問です。そして我々自身が一体誰なのかという奥深い問題にふれるものです。人間は他の人間もなかなか理解できない、ということをわかっているつもりです。知覚的にいうならば別の種である動物との隔たりはなおさら大きいという事を受け入れなければなりません。しかしその隔たりによって、人間ではない他の動物との接し方が変わってきます。人間という動物とはまた違った対応になるわけです。しかし動物のなかの魂をのぞきこんだということでは自分が特に評価されるべき存在ではないと思っています。自分自身ではなくそういった要素というものを見いだしているのはそのイメージを見ている他人のことであるわけです。
自分自身の何かを発見できるような舞台づくりを自分ができたとすれば、それはよい出発点だと思います。

F: 例えば“Dogs Gods”という犬のシリーズがあるんですけど、犬と人間の歴史というのは人類史を何万年もさかのぼるほど長いものですよね。

ティム・フラック :  その通りですね。

F:その間に人間との関係が変化してきていて、今ではティムさんも撮影されているようなアート・オブ・グルーミングまできているわけですね。

ティム・フラック:  犬の家畜化あるいは家庭化につれて、彼らのほうで変化して我々人間をどう管理するかということを修得したということです。犬たちは人間の行動を予測するために顔の右側の表情を見ているという証拠があります。いろんな動きというものを予測するために犬たちが顔の右側の表情をどう読み取るかということを学んだという証拠があるんですね。
顔の右側のほうが肥大しているんです。社会的なやりとりのなかでは左側よりも右側の方が問題にならない。犬や猫をなでるときに同じテンポでなでますね。そうするとオキシトシンというホルモンを生成するはずです。それはいろいろなつながりというものに関連するホルモンです。母親がこのようなホルモンを生成できないとつながりに障害がでてきます。オキシトシンは動物も生成しなければならないし人間も同様です。犬は常に相手を見て喜ぶんです。例えば主人が新聞を取ってきて欲しい、と思う、そしてそれなりの筋肉の動きを人間がしたとします。主人がなにも言わなくても犬はすでに新聞受けに向かっていくわけです。自分の心を読み取っているんだと人間は思うかも知れないです。ただそれは犬が我々とは違った知覚のバブルをもっているということなんです。

F: 面白いですね。じゃ、反対にティムさんが犬たちの心を読むとしたらどのような点に注意しますか。

ティム・フラック: 犬に対しては自分は不十分だと思うんですが、自分が面接やインタビューをする前に準備するのと同様に、その動物を理解している人に対して質問するという事が考えられます。もし動物に一番近いところにいる人間がストレスを感じていたとします。それがおそらく動物に影響を及ぼすだろうと考えられます。そこで私は人間と動物と同時に対応しなければならなくなったりします。そうでなければ大きな問題になりかねません。十分な感心を持ってできるだけ注意深く接するようにしています。
自分はファッションカメラマンではありませんし野生動物の写真家でもないんです。けれどももし私がファッションカメラマンだとすると、デザイナーとかトレンドに関心を持って、今現在おこっているだろうと思われるような状況の中に深くおさまるようにします。自分がなにをすればよいかということがわかっているような立場にいけるようなゾーンに入っていきたいと思います。ツアイトガイストにはいっていけるように。(ツアイトガイストはドイツ語で時代精神という哲学用語。ある一瞬という事を表す言葉としても使われる)自分としては非常な関心を持って接するわけですから相手に相当プレッシャーを与えているのかということを意識します、あるいはどういうふうにプレッシャーをもっとやわらげることができるかということを意識してやっています。そしてもし仮に鳥とかか弱い動物が驚異感というものを持っていると感じた場合にはあまり自分の方では作業は進まないということがわかっていますので、無理な要求をしないように、動物たちにとって理不尽な行動をとらないように気をつけています。
動物とその周りにいる人間とのストーリーがひとつあります。成人のオランウータンとの状況です。そこに威張った人がいたのです。それで非常にいばった人間を見てオランウータンは怒りを感じたんです。多くの人達がなんとかそのオランウータンを止めなければならなかったんです。というのはその男に対して激しく攻撃を加えようとオランウータンは考えたからなんです。また別の場合があります。虎を相手に仕事をした時のことです。つながれていない虎で部屋の中で自由に動きまわれる状態でした。虎の飼い主は肉と竹の棒しかもっていませんでした。そこに小さな少女でちょっと自信のなさそうな女性がいたのですが、飼い主のインターンの一人はその子が入ってくることを認めることができませんでした。というのはそうしたことをすぐ虎の方が認識するという危険性があるからなのです。
自分自身のことに戻ると、あまり小さくなりすぎてもいけないし、あまり強がってもいけない。常に中立の立場の観察者でなければなりません。観察者の立場をずっと維持することができたとします。そして自分のまわりに静けさというものを感じさせることができればうまくいくと思います。
例えば、あまりにもじっと猿を見つめた場合には猿はそれを驚異としてとらえるかもしれませんので、動物の種にあわせた行動をし驚異を感じさせないような行動をとったり、あるいはあまりに自分が小さくなりすぎている、弱腰になりすぎているという感じを与えてはいけない場合にはそうするようにしています。

F:とっても面白いお話しですね。ティムさんの動物に接する態度というのは全ての写真家に必要な被写体に接する態度と同じように重要な話ですね。

ティム・フラック:  ありがとうございます。

 2014年4月22日

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羽なしニワトリ

これは模型ではないし、羽をむしられたわけでもありません!このほぼ100%羽のないニワトリは、羽を失う自然の劣性突然変異種とブロイラーとして好まれる種を掛け合わせて生まれました。イスラエルのヘブライ大学のAvigdor Cahaner教授による、実験的ニワトリ交配プログラムでの画期的成果です。この交配により大きな経済的メリットと、環境面でのメリットが生じるのではないかと期待されています。羽なし品種は高温に耐性があり、高価な冷却システムなしでも暑い国々で育てることができます。また、羽なしニワトリは羽を育てない分、エネルギー消費が少なく、食べたエサがその分余計に肉に変換されます。
我々が最も見慣れたニワトリは、この羽のない姿、すぐ調理できるようパックされスーパーマーケットに並ぶ姿です。しかし、この写真のニワトリ、つまり「頭がまだあり、我々を見つめ返しながら、太ったバレリーナのようにステージを闊歩する姿」を見て衝撃を受けるのでは矛盾しています。表面的には、我々は動物のことをいまだかつてないほど、よく知っていますが、現実においてはいまだかつてないほど乖離しているのかもしれません。

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カプチンモンキー

カプチンモンキーは、カプチン・フランシスコ修道会の修道士が茶色のフード付きロープをまとう姿に似ていることからその名が付きました。この写真では、ルピーはメールを打っているように見えます。現実にはありそうにないことのようですが、実はこの人間に似た行動は、それほど非現実的名ものではありません。イェール大学のKeith Chen准教授が行った実験で、6匹のカプチンモンキーが、エサをもらうためにはコインを使わなければならない、という状況に置かれました。カプチンモンキーたちは実に素早く、価格や予算についての理解を示し、お買い得品を取ろうと我先に争う様子を見せたのです!うち一匹は、コインと引き替えにセックスを得ようと取引する様子を見せ、彼らがいかにお金に対して賢くなり得るかを実験者の予期しなかった行動で示しました。さらにそのコインを受けとったサルは、その利益を使ってぶどうを買ったのです。

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ゴールデンタピータイガー

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スノウホワイトタイガー

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ロイヤルホワイトタイガー

現在、野生のトラはわずか3000頭あまりしか残っていませんが、米国だけでも5000頭が人間に捕らえられた状態で私的に飼育されていると推定されています。ここに写るトラたちは、ベンガルトラの3種類の色の変種です。こうした交配種は、人間に捕らえられた状況下では、「テーマパークの目玉」にするためしばしば意図的に生み出されていますが、野生の状態で自然に発生することはほぼありません。
かつては、こうした色の変異を起こすために、ごく近親の間での交配が行われていました。幸いにも、遺伝子プールが極めて小さいことが認識されるようになり、多くの動物園ではこうした交配をやめています。
これらの写真では、フラックは動物を自然の生息地から連れ出し、伝統的な「人間」風のポートレートを撮りました。黒を背景に撮影された肉食獣の視線が見る者を貫き、見る側もこの獣を見つめ返さずにはいられません。

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Chinese pig

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オランウータンの手

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Horse Mountain

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Skeleton

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Green Snakes

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Blue Star

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Bannana Cockroach

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Pupa Series 2

*ティム・フラックは2012年10月に発刊した最新写真集「More Than Human」や「Equus」に代表されるロンドンを拠点に活躍する動物写真家で、写真界のアカデミー賞とも称されるインターナショナル・フォトグラフィー・アワードで複数回受賞しているほか、数多くの世界的な写真賞を受賞しています。また1990年代中盤からゲッティイメージズの契約フォトグラファーとして写真を提供しています。彼の仕事の核となっているのは、世界に対する我々の見方や、人間と非人間である動物との間に我々が勝手に作り上げた関係の概念についてです。フラックがとりわけ作品に反映させるのは、我々の動物にたいする意味付けや、それによるトリミングなどの行動であり、遺伝学や外来種、繁殖の問題など、生態環境にまつわる課題を探求すると同時に、擬人化や人類中心主義を危惧しています。


(各イメージはクリックすると大きくなります。写真クレジット中の注釈などはKYOTOGRAPHIEのパンフレット、ゲッティイメージズの資料から転載させていただきました。)

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