写真中毒者のための読書ガイド #1

『写真編集者ー山岸章二へのオマージュ』

西井一夫 窓社刊 より

 まず、写真をやろうと思う人は、人から「何であなたは写真を撮っているの?」というか「何であなたは写真家になったの?」と聞かれたときに、自分が写真というものを選んだ理由を言えるようにしていなければならない、ということです。おそらくこれを言えない人がいっぱいいるはずです。好きだからとか、趣味だったからとか、カメラがあったからとか、そういう理由ではなく、他人が納得しなくてもいいけれども、他人がそこに介入できる一定の論理を持った理由でなければなりません。
 それは自分の選択で決まっているはずですから、各自全部違うはずだし、自己選択の論理化なのですから、論理化は自分にしかできないはずです。ですから人が言っているようなことをまねてもぜんぜん話になりません。あっという間に反論されて終わります。
 一番よくある例として、「誰々さんの写真集を見て感動した」とか、「誰々の写真をみて、ああいう写真を撮りたいと思った」という話がありますが、この手のマニュアル化した理由ではいけません。そうではなくて、あなた自身が、あなた自身のために選んだ理由でなければ通用しないということです。極端な話、金儲けのためでもいいかもしれない。私個人は、「コイツ頭悪いな」と思いますが。
 それを言えない人は写真をやる必要がないのだから、写真をやめた方がいいでしょう。金の無駄遣いだし、資源の無駄遣いでもあります。

・・・・・写真の一番魅力的なところは、人間の眼が見ている、すなわち肉眼で見た視覚のイメージと現実に存在する世界がいかに違うかということが、写真を撮るとわかる、ということです。おそらくそれが写真が持っている、唯一最もすばらしい魅力だと私は思います。

・・・・・そういう意味で「触れる」という言葉をキーワードにすると、記憶というものが突然現れます。記憶というものに一番相応しい言葉は「触れる」ということです。したがってカメラは記憶と非常に近い関係を持っている。どこで近いかというと、ロラン・バルトが言っているように、「かつてそこにそれがあった」ということしか言っていないという意味で、それは記憶そのものなのです。「かつてそこにあった」ということは、多くの場合「もう既にない」ということです。したがっていま現在の存在はない。それは記憶としてしか残っていないということで、写真は記憶と深い関係にあるものだと、私は思います。
 今お話ししたことを別の言葉で言うと、写真になると人間が肉眼で見ているのとまったく違う世界があるといういうことがわかる、ということです。これは『プロヴォーク』が最後に出した本のタイトル『まずたしからしさの世界をすてろ』という、あの言葉の意味がこれなのです。人間の視覚が、世界はこうであろうと思って捏造している世界をまず捨てて、写真に写っているものが世界だというふうに見ていくことから始めよう、というのが『プロヴォーク』のメッセージであり、森山大道さんの『写真よさようなら』の「写真」とは、そういう意味なのです。

・・・・・しごく当たり前ですが、写真をできるだけいっぱい見ること。可能であればプリントで見ること。・・・横着せず写真集ではなく人がどの程度のプリントをつくっているかということを、自分の眼でよく見ることです。

・・・・・プリントを見ることが可能でない場合は、仕方がないから写真集を大量にみましょう。・・・・・

 それから、自分でいいと思った写真、好きな写真、あるいは好きな写真家の写真集およびプリントを、金があれば大量に集めること。そして寝ても覚めてもそのプリントを必ず見ていること。例えばアンセル・アダムスの「メキシコの夜」とかいう何千万円というプリントがありますが、ああいうものは高くて買えないだろうけど、写真集でもいいから見て、写真の階調はここまであるということを知らなければなりません。
 要するにそういうほうにお金をかけるべきなのであって、機材とかそういうものにお金をかける必要はありません。森山大道さんと同じ方式でいけばいいでしょう。人から借りて自分のものにしてしまうとか、誰かからもらう、とかコンパクトカメラで十分写るのですから。ライカを買う金があるんだったら、プリントを買って眼の保養にするべきでしょう。



註:著者の西井一夫は『カメラ毎日』誌の最後の編集長だった人。その辛口の写真批評は写真というメディアの本質にずばずばときりこんでいって爽快。2001年惜しくも亡くなられた。本書は最後の著書にあたる。引用部分はホスピス入院中に口述されたもの、ということである。

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