写真中毒者のための読書ガイド #3
『遊8 叛文学非文学』
コラム「光こそ事物であり作品であり精神である」
森永純 工作舎刊 より
・・・なぜなら、名作の壺だとか竜安寺の庭にしても、人間が作ったものですよ。写真家だってそれをしなければいけないと思う。竜安寺の庭に価値があったとしても、それが日本的なものの代表だとしても、それを写真にしたところで、本物の魅力にかなわないのは当然です。写真っていうのは、科学的にはコピーに過ぎないから、竜安寺の庭を写真で作ることこそやんなきゃいけない。
・・・現在私に見えている存在物さえ、すぐ見えなくなるんじゃないかと不安に思うようになった。すべてが一瞬じゃないかとー。その一瞬ですが、百年も一瞬で、シャッターの1/250秒も一瞬ですね。宇宙のサイクルへもっていけば、五百年とか千年も一瞬かもしれない。うっかり遊んでしまったとか、ちょっと先へいって戻って見たらもうないということは日常よくある。ですから見えているものも、あまり信用できないとすれば、実体より、フィルムの方が私は信用出来る。・・・・・眼に見えるものよりも、フィルムの方が信用できるとすれば、むこうに「もの」があって、フィルムがあって、私がいるという関係ですね。単なる影であり、イメージかもしれないフィルムをプリントしたものこそ、私にとって最も信用しなければいけない「もの」の筈です。ただ、あくまでも、対象物と私が作った写真とは、まったく別物だということ。その辺の写真の見方が、一般に人にはほとんどわかってないですね。
・・・常にいい事物というのは、静かにどこかにあるということではないか。しかし、人間の感情とか情緒にうったえて泣かすという作品がほとんどで、これらは上等のものとはいえない。いいものは、どこか静かにそこにある。その証拠に、何千年前の遺跡を現代人が見て、誰が作ったかわからないものの中から、働きかけてくるなにかをキャッチする。これが事物を作る側の大きな目標ですね。いいものは、皆のためのもので、こういう偉大なものを作ったから、その人が立派だと言うんじゃない。作者の、人間の肉体は次の瞬間なくなってもいいわけです。その人の精神の替わりに「もの」があるわけですから。
・・・よく画廊でコンセプチュアルアートなんてのを写真をメディアにしたものでやってましたね。あんなものを見に行っても、ちっともおもしろくない。というのは、安っぽい観念で作られて写真をならべたものより、こちらが町を歩いて、想像している方がよほどおもしろいですね。それをわざわざ、あんなふうに画廊で見せるのは、流行とはいえ安っぽい観念性だけですね。そんなこと写真の世界では昔からやってることじゃないですか。対象物より、写真に置き換えられたものの方が、コンセプトなのは当たり前すぎます。
・・・写真メディアというのは、ややっこしい。
要するに写真の使われ方のほとんどが、現在のところジャーナリズムですから、他の要素としての使われ方が遅れている。中原祐介さんの「写真は、美術の一ジャンルだ」という説、おもしろいと思います。写真の歴史というのは、像を止めるところから始まった。それ以前の、カメラオブスキュラーは、まだ写真の歴史じゃないと言っている。私の写真の考え方は、文学や絵画で、いくら細かに現実描写しても、表現できないものを全部、すくいあげたものが写真だと思っています。あらゆるものが、その中に写っている。だから伝達の部分だけでなく、ちがった意味でももっと使われなくてはいけない。日本では、オリジナルプリントが発達しない。アメリカでは「ライフ」以前は、皆そうだった。アメリカというのは、写真に力を入れたというところがある。子供は家族の写真だとか、風景だとか、大統領の写真とか自宅の壁面を通して、見ながら育っていくわけで、だから生プリントに対する理解が早い。日本では、アルバムの中ですから写真がとじられています。奈良原一高さんは、アメリカから帰って、部屋に写真をかざるというのは大変なことだと言ってました。なぜなら育っていく子供たちの心に精神的な影響をあたえるからと。
だからいい写真を選ばなくちゃいけない。これでオリジナルプリントの主張の全部が言い表されていると思いますよ。それを見ながら人が育ってゆく。人間というのは、環境の与える心理的影響は、ものすごいですからね。そういう使われ方がされてないから、雑誌だけ見て写真とはこんなものだで終わってしまう。写真の真の意味も伝わらないうちにね。それでも、プリントとして残っていれば、次の時代、誰かが、それを発見してくれますよ。ところがそのプリントを保管する場がない。
・・・土なら土、海なら海だけを写真にするというのが、いかに大変かということがわかりました。畑をロングで引くと畑になるけど、アップで近づくと泥になる。土にならないわけですよ。そこで土のところに植物の根をちょっと入れてみようかと思ったけど、根の方が視覚的に強くなる。写真が「もの」と「もの」との関係で成り立っているのがよくわかります。・・・・・雲だけとか、波だけとかを切りとると、どういうわけかおもしろくない。しかし、むつかしいからなんとかしたいですよね。波だけではチャーミングじゃない。失敗覚悟です。それを恐れるなら、チャーミングな被写体を撮っているほうが楽だし、よろこばれるしね。
何をやったかという結果、いわゆる行為とか「もの」で人間を評価する。それしか評価の下しようがないということでしょうかね、精神なんて形がないですからね。でもその人が何をしなかったかということも、ものすごく重要なわけですよ。何をやらなかったという事を評価するような新しい価値観がほしいですね。歴史の中には、我々が知らないだけで、意外とそういうことで、ささえられてる事柄が多いと思いますね。写真でも、何を選ぶために、何を捨てたかということです。
註:『遊8 叛文学非文学』は1975 年発行の雑誌。今から37年前に書かれた文章ということになる。この間にデジタル化やらアート市場への写真の参入などさまざまな変化がおこっているがここで主張されていることは写真の本質論なのでいまだに新鮮であると思う。こういう問いかけに僕たちはきちんとこたえていかなければならないだろう。
雑誌『遊』のバックナンバーはアマゾンでは手に入らないようだ。ネットでしらべてみたが、第一期はもう手に入らない模様。