写真中毒者のための読書ガイド #4
『創造力なき日本_アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」』
村上隆 角川書店刊 より
現代美術は西洋で誕生し、そのルールが形成されたジャンルです。
だからこそぼくは、欧米の芸術史を今もまだ学習し続けているし、そのルールの上でどのように勝負をしておけばいいかを考え続けています。
欧米の芸術の世界には、”確固たる不文律”が存在しています。
そのルールをわきまえずにつくられた作品は、評価の対象にさえなりません。
日本の現代美術家たちがほとんど欧米で通用しないのはそのことを理解していないからです。
それでは評価されるためのステージにつくこともできないのは当然です。
では、どのような作品が評価されて、どのような作品が評価されないのでしょうか。
わかりやすい単純な部分でいえば、欧米では「見た目がきれい」的なことは重要視されません。知的なゲームを楽しむのに似た感覚で芸術作品を見ているので、目に入った瞬間の美しさなどよりも、観念や概念といった「文脈」の部分が問われるからです。
たとえばぼくは、90年代に等身大のフィギュア作品をつくって、それが注目されました。当時のアメリカではグローバリズムとローカリズム(郷土偏愛主義)をテーマにした自己言及的な作品が主流になっていました。
その当時のぼくには、それがただのトレンドなのか、芸術の本質が問われるものなのかの判断がしきれてはいませんでした。しかし、ローカリズムの象徴として、日本の自画像として、フィギュア作品をつくることを発案して、それが成功しました。
これが受け入れられたのは、やはり文脈の問題です。
この頃には、こうしたかたちで日本を表現する日本人アーティストがいなかったので、その登場が待たれていたのだと考えられます。そうした部分を読み解き、提示していくことが大切になるわけです。
その後もぼくは、欧米における芸術のルール、評価されるためのアートの構造というものを徹底的に分析しました。そのうえで(訓練・実験・検証)を繰り返しています。
今現在、ぼくの作品は、9割くらいの打率で評価を得られており、売れない作品は1割にもならない状況です。ちゃんばの若いアーティストたちの打率もそれなりに高くなっています。なぜそれができているかといえば、それだけ「ルールの分析」と「戦力分析」ができているからです。
若いアーティストたちが残している結果からも、ぼくの提示している方法論やトレーニング方法が正しいのは立証されています。
そういう研究をおろそかにして、努力の質と量を下げれば、たちまち打率は下がっていきます。現代美術作家の寿命のほとんどがごく短いものになっていることでもそれははっきりしています。
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*村上隆が指摘する日本の現代美術界の状況はそのまま日本の写真界にもあてはまります。ベッヒャーシューレの卒業生が活躍し、シャーロット・コットンのクリティークが幅をきかせている現代の欧米の写真界をみるかぎり日本の写真家も欧米のコンテンポラリーアートマーケットを知っておく必要があるでしょう。