写真中毒者のための読書ガイド #2

『奈良原一高写真集・時空の鏡』

奈良原一高 新潮社刊 より

 一枚の写真を見ると、それが生まれた瞬間へと一気に想いは飛ぶ。その瞬間に発生したエネルギーを再び味わう。そして、言いようのない切ない気持ちが尾を引いて残る。その切なさは、もう再びそのきらめく刹那に肉体が立つことが叶わぬことを知っているからだろうか。それは、想うだけの恋に似ているかも知れない。
 写真は時間の恋人なのだ。
 恋人を思うとき、僕たちはそのひとの写真を眺めるだろう。その時、瞳は画面の中の恋人を見ているのではない。その画面を越えてその向こうにいるひとに向かって僕たちの眼は語りかけているはずである。
 宇宙は自分の存在を認識してもらいたい為に、知的生命体を創った、とも言われている。もしそうだとしたら、写真家こそ宇宙が最も期待する種族のひとつではなかろうか。
 たしかに、写真を通して僕たちが見つめるのは、その被写体の向こう側に広がる宇宙の神秘に他ならない。途方もないスペースの広がりと時間の連なりに憧れて、刹那の鏡の中に時間の恋人の面影を映そうとするのである。憧れから始まる写真の中には何時も青春が住んでいる。
 写真を振り返って見る時に感ずるあの例えようもない切なさは、僕たちの人生が100年にも満たない時間的存在にしかすぎないという想いから生まれるようだ。
 自分が何時かは死んで消えてしまうという自覚が人生の流れのなかで殊更に時間の次元を強く意識させるのだろう。未来から不意に現れては、勝手に通り過ぎていく、その脆い危うさ。もう二度と立ち返ることの出来ない、取り返しのつかない時間の消え方を追って、何故か僕たちはシャッターを切る。
 時として、不思議な感覚に襲われることがある。自分が今撮っているこの映像は未来の時空の中にすでに用意されていて、ただ自分はそれに出会っているだけではないか。それまで、ぼんやりと時間と空間を越えて広がっていた宇宙の波動は、僕が意識し出すと途端に収縮し、意識を集中するとそれは写真となって現れてくる。自分の内なるものと外とが融合する瞬間でもある。その時、僕は自分の全身の細胞が一つの流れのように制御される快感を覚える。しかし、シャッターを押すのは僕だけど、押させているのは何か目に見えない存在が背後にあるような気がするのだ。この気配として感じるものは、「宇宙の意志」と言っても良いかもしれない。
 どうやら、写真はユングのいうシンクロニシティ(共時性、意味のある一致)や集合的無意識、そして量子力学の確率に支えられているかに見える。
 その世界は未来から突然にやってくる。


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