川田喜久治写真集『ラスト・コスモロジー』
「昭和」と「戦争」がオーバーラップ
内藤正敏(写真家・民俗学者)
川田喜久治が“宇宙を写す”という壮大な試みをおこなった。昨年11月に横浜のタワーギャラリーで開いた個展「ラスト・コスモロジー」が写真集になった。
川田喜久治といえば、「地図」(美術出版社、1965年)を思い出す。川田は、『地図』の制作時を回想して、皺くちゃな「国旗」を写したことから、ヒロシマの原爆ドーム天井に焦げ残った人たちのシミ、特攻隊員の遺書・・・・・などと撮影していった、と述べている(『25人の20代の写真』清里フォトミュージアム、1995年)。
『地図』の主題が「昭和」という時代の「戦争」にあったことがわかる。しかし、その後の川田の写真から、「昭和」も「戦争」も姿を消していった。
ところが、『ラスト・コスモロジー』の巻末に、川田は興味深いことを書いている。
最初はタイトルも「雲」とか「空」「エアロ・ファンタジア」といったものだったが、二十世紀最後に日本で見る事ができる金環蝕や金星蝕などがあり、地上でも「昭和期の終焉」があった。そのためタイトルも「コスモロジー」の頭に、そっと「ラスト」をつけ加えたのだという。
実際に本の装丁も、表紙は1998年の「二十世紀日本最後の日蝕」の写真であり、その裏は、89年1月7日の昭和天皇崩御の日に写した3枚の「昭和最後の太陽」の写真となっている。あきらか「ラスト・コスモロジー」というタイトルには、「昭和天皇の死」が重ねられている。これら雲間から顔を出す陰鬱な太陽の写真を見ていると、昭和最後の日に、太陽に向かってシャッターを押す川田の心のなかに、あの「昭和」と「戦争」が、再び大きく浮かび上がっていたことが想像される。
「ラスト・コスモロジー」をよく見ると、80年前後からの素朴な「空」の写真、87年から90年の「宇宙」の写真、91年以後の「生命」を暗示する写真、と大きく三段階の写真群に分類することができる。
これらのうちで、なんといっても圧巻は87年から90年の宇宙の写真で、本全体の中枢をしめる。87年に沖縄で写した「二十世紀日本最後の金環蝕」、88年小笠原父島で写した「二十世紀最後の日蝕」、89年の「二十世紀日本最後の金星蝕」「月の軌跡」「月面」などのスリリングな写真が続く。
そして太陽の黒点が増大して活動期を迎えた89年、川田はオーロラを写しに、わざわざアラスカの北極圏にまで行っている。この1989年こそ、昭和天皇の死で、昭和64年が平成元年へと変わった年だったのである。
この頃の川田の宇宙写真に、重厚な深さと緊張感を感じるのは、天皇の死によって呼びさまれた彼の青春時代の「昭和」と「戦争」が、ラスト・コスモロジーの宇宙論的終末感と重なっているためではなかろうか。
年号が平成と変わってから翌90年、川田は宇宙写真の総仕上げのように、超望遠レンズと特殊フィルターで、異様な太陽表面を写した「太陽について」や「太陽黒点とヘリコプター」という不思議な傑作を写している。
こうして超望遠で太陽に最接近した後、91年の「暈の都市」や92年の「十二の太陽」などのように、太陽や星はワイドレンズで風景の一部となってゆく。その代わり、川田の興味は、91年に江ノ島で写した「みずくらげ」や94年のバリの「睡蓮」など、生命体の原像を思わせるような動植物となってゆく。
私は、これら十数年間にわたる川田の写真を見ていると、月に降りたったアメリカの宇宙飛行士たちが、暗黒の宇宙に浮かぶ美しい地球を見て、そこに生命の存在を確認し、自分も生命体の一つであることを実感した、という話を思い出す。地球規模の環境問題がクローズアップされてくるのも、人間が宇宙から地球を見るという視覚を獲得したからである。
あらためて『ラスト・コスモロジー』を眺めると、川田喜久治は、写真で宇宙飛行をしてきたように思えてならない。
内藤正敏
1938年、東京生まれ。写真家。民俗学者。東北芸術工科大学教授。民俗学的アプローチの作品を数々発表。1982年『出羽三山と修験』で土門拳賞受賞。海外での評価も高い。写真集・著書に『東京』『ミイラ信仰の研究』『遠野物語の原風景』『修験道の精神宇宙』など多数。
『ラスト・コスモロジー』川田喜久治 企画制作 福島辰夫+491 定価4500円
(1996年 掲載誌不明 著者の了解を得て再収録しました。)